岐阜県境の確定・・・2通の 内務卿布達を原本から別の角度で見ると・・・

明治天皇の明治11年巡幸(北陸道・東海道)

更新:2020/11/13

  

 ここに明治時代の公文書である二通の布達(ふたつ:明治19年以前に発布された省令・府県令などの行政命令)があります。

 一通は岐阜県恵那郡加子母村(現 岐阜県中津川市加子母)と長野県筑摩郡王瀧村(現 長野県木曽郡王滝村)との境界に

関する布達 明治11年3月2日付、甲第3号であり、

 一通は滋賀県犬上郡五僧村(現 滋賀県犬上郡多賀町五僧)と岐阜県石津郡時山村(現 岐阜県大垣市上石津町時山)との

境界に関する布達 明治11年6月18日付、甲第17号です。

 それぞれの境界の最終確定までの経緯と布達の詳細は下記に示す岐阜県史にすでにまとめられているところです。

 さて、明治11年3月2日付の布達は、内務卿(ないむきょう) 大久保利通名であり、明治11年6月18日付の布達は、内務卿

伊藤博文名でどちらも明治の元勲と言われている人達です。

 これらの布達は各県毎に当時多数印刷され、日本全国に各県版があるそうです。もうそんなに残っていないと思いますがたま

たま入手したのが*長野県版の次の三通でした。

  *布達 明治11年3月2日付、甲第3号 内務卿 大久保利通名   *布達 明治11年6月18日付、甲第17号 内務卿 伊藤博文名

 そして、後で探し出した *布達 明治11年5月13日付、甲第12号 内務卿 大久保利通名

 内務卿は、明治時代の太政官制における事実上の首相です。おやっ?この期間に内務卿が交替しているのですね。

 しかし、この両者はそれ以前にも内務卿を交替していますから、特にめずらしくないのかもしれませんが・・・・・・・

 

 そして、内務卿を交替からか二通の文面もわずかに異なっています。すなわち前者の「岐阜縣管下美濃國、長野縣管下信濃國」

「トニ係ル」に対し後者の「滋賀縣近江國、岐阜縣美濃國」「トノ間従前」等にニュアンスの微妙な違いが見られます。 

 

甲第三號 明治11/03/02

 

出典:長野縣版 和本 (上)出典:長野縣版 和本 (上)

出典:長野縣版 和本 (上)

出典:山形縣版 和本 (下)

甲第三號

岐阜縣管下美濃國惠那郡加子母村ト長野縣

下信濃國筑摩郡王瀧村トニ係ル國界字三浦山

反別六千百四拾六町拾七歩倚自今信濃國ニ属シ

候條此旨布達候事

明治十一年三月二日 内務卿 大久保利通

 

*明治時代の布告布達は国から各県(明治初

期は300県ほど)へ木版印刷・配送 されていま

した。各県庁(各県により相違があるでしょうが

各300枚ほど)でも又、木版印刷され各村大区

中区小区へと同じように配送されました。その

後明治5年以降は活版印刷も行われるように

なりました。ですから全国では当初約9万枚程

度印刷されていたと推察されます。

 これらは、ちょうど現在の官報にあたります。

 
今回の長野縣版 和本とは、長野縣庁でも

出版し各村大区中区小区へと配送されており、

其の一部で綴られていたものです。

 長野縣版右肩の番号は長野縣の発番号だ

と思われます。なお、同布達の山形縣版を見

ると山形縣令の発番号の付いた頭紙の添付

がある。山形縣では、中央および地方官庁か

ら山形縣あて発信された公文書を、山形縣令

名の「かがみ」(鑑、頭紙)を付して縣内に発信

し「漏れなく触示せよ!」とした。

 
 

甲第十七號 明治11/06/18

 

出典:長野縣版 和本 (上)

出典:山形縣版 和本 (下)

甲第十七號

滋賀縣近江國犬上郡五僧村ト岐阜縣美濃國石

津郡時山村トノ間従前國界不明瞭ノ場所ヲ確

定シ山反別九畝拾五歩七釐八毛ヲ近江國ニ属

シ同反別壱反九畝九歩七釐六毛ヲ美濃國に属

候條此旨布達候事

明治十一年六月十八日 内務卿 伊藤博文

 

 歴代内務卿

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

二つの布達の期間はわずか三か月半しかありません。単なる交替でしょうか? 調べてみると事件がありました。

 あの有名な「紀尾井坂の変」です。

 内務卿 大久保利通が、明治11年(1878)5月14日午前8時30分ごろ東京府麹町区麹町紀尾井町清水谷(現在

東京都千代田区紀尾井町清水谷)で不平士族6名によって暗殺された事件です。

   

 そして、事件の翌日明治11年5月15日付で伊藤博文が内務卿に就任しています。

 ところで、大久保利通名の最後の布達は、いつでしょうか?

 3月2日付3号、三か月半かかって6月18日付17号ですから、最後が5月13日付の布達とは

限りません。

 しかし暗殺前日の布達は存在しました!探し出したのが明治11年5月13日付、甲第12号

  内務卿 大久保利通名の「各地官林で内務省地理局が伐出した切判(きりはん)の処理 伐採年度

表示 別紙甲乙図添付」の布達です。

 内容は、歴史的な価値は少ないと思いますが、次号が明治11年5月18日付、甲第13号 内務卿

伊藤博文名であり、甲第12号が内務卿大久保利通最後の布達と言うことでは価値があります。

 
 

甲第十二號 明治11/05/13

別紙 甲號圖     布達

出典:長野縣版 和本

  

別紙 乙號圖

 

(参考)国立国会図書館デジタルコレクションによる検索結果

 

 

甲第十二號(暗殺前日・大久保利通最後の布達)

各地官林之内當省地理局於テ伐出シノ木材ハ

自今別紙甲號圖之通切判イタシ*幷其伐採年度

ヲ査別スル爲メ乙號圖之通年々切判相加へ候

筈ニ付此旨布達候事

明治十一年五月十三日 内務卿 大久保利通      

 *併せて、並びに

  

 

◎内務卿 大久保利通 暗殺前後の内務省布達

甲第三號  明治11/03/02 内務卿 大久保利通

  ◎岐阜県加子母村と長野県王瀧村との境界に関する布達

甲第十號  明治11/05/06 内務卿 大久保利通

   長野県阪木村と同県力石村との境界に関する布達

甲第拾壱號 明治11/05/06 内務卿 大久保利通

   蚕種原紙規則に関する布達

【内務卿 大久保利通 暗殺 前日13日の布達】 

甲第十二號 明治11/05/13 内務卿 大久保利通

   内務省地理局伐採木材の年度表示に関する布達

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「紀尾井坂の変」明治11/05/14 【内務卿 大久保利通 暗殺】

    

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【内務卿 大久保利通 暗殺直後の布達】

甲第十三號 明治11/05/18 内務卿 伊藤博文

甲第十四號 明治11/06/03 内務卿 伊藤博文

甲第十五號 明治11/06/03 内務卿 伊藤博文

   長野県八幡村と同県麻績村との境界に関する布達 

甲第十六號 明治11/06/18 内務卿 伊藤博文

   新潟県樽本村と長野県古海村との境界に関する布達

甲第十七號 明治11/06/18 内務卿 伊藤博文

  ◎滋賀県五僧村と岐阜県時山村との境界に関する布達

 

 

(参考)国立国会図書館デジタルコレクションによる検索結果

@甲第三號 明治11/03/02

A甲第十三號 明治11/05/18  甲第十四號 明治11/06/03 

 

 

 

B目録 内務省 布達 明治11年 

 

 

岐阜県史 通史編 近代上 昭和42年(1967)3月31日発行 239ページから

 第四章 行政区画の変更

  略

  第二節 県境の確定

    略

   一 県境未定地の確定

      中略

加子母村と大滝村

 恵那郡加子母村と長野県筑摩郡王滝村は、両村の境に位置する三浦山の所属をめぐって争った。

 現在長野県西筑摩郡の王滝村地籍にある三浦山は、濃・飛両国と信濃に境を接しているため、この山をめぐっての境界紛争

は、正保の国絵図調整当時に端を発している。三浦山の所属については、その頃から飛騨の竹原・御厩野両村と木曾の王滝

村との間で激しく争われたが、それが飛騨の領主(金森)と木曾の領主(尾張徳川)との領界争いに発展したため、結局は飛騨

側が後退した形で三浦山の帰属は尾張領木曾王滝村と決定した。

 その当時加子母村は、木曾と同じ尾張領であった関係から、加子母村と王滝村との間には争いを生じなかったが、その信・濃

境界は必ずしも明確でなかったために、廃藩置県後、加子母・王滝両村が県を異にするに及んで境界論が表面化し、即ち加子

母村は、三浦山はもともと加子母の村域に属したと強く主張しはじめたために、その解決は、岐阜県と長野県の県界問題として、

行政的な処理に委ねられることになったわけであるが、前後数年に亘ったこの問題に終止符を打ったのは、明治11年(1878)

3月の内務省布達である。

 即ち同年3月2日附の内務卿から本県に宛てられた布達において、岐阜県管下美濃国恵那郡加子母村と、長野県管下信濃

国筑摩郡王滝村に係る国境三浦山(反別六〇四六町一七歩)は、以後信濃国に所属すると決定した旨が明示されたので、こ

れによって三浦山問題は解決を遂げ、同時に岐阜・長野両県の境界も確定した。

時山村と五僧村

 ついで明治11年6月には、本県石津郡時山村と、滋賀県犬上郡五僧村との間で争われていた所属不明地の境界について

内務卿から裁定があった。それによると、争点附近の山反別九畝一五歩七厘八毛を近江国に、同じく一反九畝九歩七厘六毛

を美濃国に所属させ、その中間に一線を画して両県の境界とすることを明らかにしている。

以上 

  

注:時山村と五僧村の争いについては岐阜県史記載は以上であるが、滋賀県史、多賀町史、上石津町史にも掲載されている

ようです。

上石津町史 通史編   昭和54年(1979)5月31日 発行 342ページから

時山村・五僧村の境界論

 滋賀県犬上郡五僧村と時山村の境界は、奥地のこととて江戸時代より所属不明の地があって、両村の間で論じられていたが、

明治11年6月内務卿の裁定によって、時山村一反九畝九歩七厘六毛、五僧村九畝一五歩七厘八毛とし、その間の線を県境と

定められた。

以上

 

ふるさと上石津(町史追録 第一輯)  上石津教育委員会 発行  上石津町史研究会 編集  

                                                平成6年(1994)3月31日 26ページから

(2)時山村と五僧村の境界論

 美濃国石津郡時山村と近江国犬上郡五僧村との国境は、寛永年間より争論されてきた。

    中略

 その後両村の境は確証になる書面(図面)がないため折り合いがつかず明治六年になり滋賀県側と岐阜県側立会の上道筋よ

り東南と西北の山は絵図面により実地検査を行い、境界を決定立分峠の標柱より東北を美濃国、西南を近江国と定めた。資料A

資料A

                  時山村

一 美濃国石津郡時山村ヨリ近江国犬上郡五僧村

  相掛リ江濃立分峠地境争論之一件逐一及吟味候

  処双方確証ニ相立候書面無之ニ付実施遣検査更

  ニ境界相定事如左

一 字立分峠標柱ヨリ東北ヲ美濃国相定メ西南ヲ

  近江国相定候事

一 道筋ヨリ東南之山ハ絵図面之通リ標柱ヨリ見通

  シ立木ヲ尾通リヘ移リ西国之界相定候事

一 道筋ヨリ西北之山ハ絵図面之通リ標柱ヨリ見通

  シ尾通リ立木ヲ以両国之界相定候事

一 畑並匿畑共是迄持来リ候者ヲ更ニ持主相定メ

  国界ヨリ東北之分ハ美濃岐阜県ヨリ地券可相渡

  西南之分ハ都テ近江国滋賀県ヨリ地券相渡可相

  渡事

一 山地之儀標柱ヨリ東北美濃国ヘ相定候内尾通リ

  ヨリ下槻林迄之処当村示談ヲ以テ相定メ候

  持主ヘ岐阜県ヨリ地券證可相渡事

      但貢税之儀ハ追テ税則御改正迄ハ従前之

      通可相心得事

  右之通相定メ候條向後違乱致間敷者也

明治六年五月十日       

   滋賀県令松田道之代理

      滋賀県権参事  籠畠安定  

   岐阜県令長谷部恕連代理

      岐阜県大属    後藤信成  

以上 

その他     明治天皇の明治11年巡幸(北陸道・東海道) 

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